日本の政治のグズグズな感じの根っこが何なのか分かってきたのでメモ。ヒントになったのは、アンカテの中の人のエントリ。アンカテの中の人が言っているとおり、 PHP を dis る人と、dis らないでくれ涙が出ちゃうっていうやりとりは結局、
「自分の経験の枠組みは自分で変えられる」という発想の有無という問題があるのではないだろうか。
という方向で考えるとうまく理解できると思う。で、
つまり「プログラミング言語の仕様というものはユーザの総意によって変えることが可能である」という暗黙の前提が無いとしたらどうなのだろうということだ。
という答えが
PHPのコミュニティは、そういうメンタリティとは逆の人が集っていて「不変の確定した枠組みを作る」ということにフォーカスを当てている。だから、マニュアルや教育システムが整備されていて、スキルとして明解で人月として計算しやすい「PHPプログラマ」の集団を送り出すことができたのではないだろうか。
そう考えると、PHPは「人間には環境は変えられない」という信念にマッチしている分だけ、旧世界には受けがいいけどネットという新大陸では叩かれやすい、ということになる。
というのも、とても納得できる。で、この文章を、 s/プログラミング言語の仕様/政治/g 、 s/ユーザ/国民/g 、 s/PHP/日本/g 、 s/プログラマ/人/g してみると、
つまり「政治というものは国民の総意によって変えることが可能である」という暗黙の前提が無いとしたらどうなのだろうということだ。
日本のコミュニティは、そういうメンタリティとは逆の人が集っていて「不変の確定した枠組みを作る」ということにフォーカスを当てている。だから、マニュアルや教育システムが整備されていて、スキルとして明解で人月として計算しやすい「日本人」の集団を送り出すことができたのではないだろうか。
そう考えると、日本は「人間には環境は変えられない」という信念にマッチしている分だけ、旧世界には受けがいいけどネットという新大陸では叩かれやすい、ということになる。
ってことになって、どっかで言われているような、日本の政治に関する文章ができあがる。
そういう考え方を巡る対立って、この問題に限らずあっちこっちにあるような気がする。「変えられる派」が「変えようよ」と言うと、「変えられない派」は「変えることができる人は例外であってそういう人を規準にしたりするな自分たちと同列に置くな」と言って怒る、そういうパターン。
このあたりも、競争をネガティブにとらえる日本の空気と一致する気がする。
そう思いながら統計の取り方を変えて日本をすごく見せようとする政府のやり方を見てみると、「PHPを dis らないでくれ。PHPは●●だからすばらしいんだよ」と言っている人たちとかぶって見えてしまう。
ということは、PHP マンセーな人が他の言語に目を向ける必要があるように、日本マンセーな日本人も海外に目を向ける必要があると言えそうだ。なのに政治家は、相変わらず日本マンセーから抜け出せていない。 PHP マンセーな人が PHP マンセーから抜け出せない理由が技術力がないことだとしたら、日本の政治家が日本マンセーから抜け出せない理由も(自主規制)。とりあえず海外に住んでみたくなった。